2014 土砂災害あれこれ


せせらぎ公園の自然 (大禹謨)

豊かな水が穏やかに流れる場所は、生き物の好む場所でもある。広島市安佐南区佐東地区には年中絶えることなく水の流れる公園がある。締め切られた古川の源流に当たる取水口から2筋に流れ出る川で、平時は「せせらぎ河川公園」として開放されている。標高は上流で約15m、約3km下流で7~8m、傾斜角はわずかに3~4度であり、2筋合わせて約5kmのゆったり流れる川である。流れに沿って遊歩道も整備され、通学路、ウオーキング、水に入って水と戯れることも生き物を採取、触れ合うこともでき、生活に溶け込んだ場所である。このような都市部での憩いの場所は、全国でも珍しいのではないだろうか。広島市民の誇りの公園であると思う。人は、自然との共存がなければ生きていくことはできないが、自然はいつも人に優しいとは限らない。全国どこであれ、災害を無視して生活できるところはない。人の生活は、時に牙をむく自然の猛威にさらされている。また、どんなに豊富な水が穏やかに流れていても、その水を容易に農耕に利用できるとは限らない。降雨によって引き起こされる水害という大きなリスクもついてくるのは歴史が物語っている。

水源利用にまつわる先人達の努力は各地で伝承されているが、佐東地区での治水・利水工事は、広島市教育委員会の資料によると、1692年からの記録が現存している。

佐東地区は、年中絶えることのない豊富な水をたたえている大きな河川と山々に抱かれ、ことのほか自然に恵まれた地域であるが、八木・佐東地区は、標高300~600mの山が連なっているにかかわらず、すぐ脇の水の流れる川面の水面は、海岸から15Kmも上流であるというのに標高はわずか10m強である。なにしろ、元は佐東・八木地区は海岸線であったというから・・・。標高差500mの山地から一気に流れ落ちる谷筋は、小規模な扇状地を形成した。さらに中国山地の広範な土砂・雨水を集め、太田川となり、大きな規模で広島湾に流れ込んで、大きな扇状地となったのが広島市である。小扇状地であるがゆえに水は豊富ではあるが太田川は低地を流れるため、農耕に利用できる十分な水を確保できなかった。佐東・八木地区の土質(真砂土)からも貯水するのが困難であったらしい。このため水害と水不足による苦難の連続であったことを資料が語っている。

さて、資料によると、「せせらぎ公園」は、太田川の支流である古川の治水工事の副産物として生まれたものである。佐東地区まちづくり協議会の広報資料「DAIUBO」(大禹謨)によると、その治水工事とは、同地区の水禍を防ぎ、生活、農耕等に有効活用できる水資源の確保と防災を目的とするものである。つまり、既存の「八木用水」の取水位置等の改修、太田川には「高瀬堰」を建設し、水門をおいて流量を調整し、古川の起点を締める。下流には太田川の広い放水路を建設して扇状地の水はけを良くする工事である。古川締め切り工事等々の治水にまつわる一連の工事である。

この偉業完成に“「治水の神」ともいわれる黄河の水を治めた夏(か)の禹王の遠大な「はかりごと」にあやかって「大禹謨」を建立した“とあることから、難工事であったことが伺われる。「禹王」とは、中国古代伝説上の聖王で、今から約4,000年前に黄河などの治水に功をなし、後に夏王朝を興し王となった人である。中国では治水の功をたたえ「治水の神」と崇められていた。この治水の神様が日本にも伝わり、古事記等にすでに記載されているとのことで、日本の50か所に「禹王の遺跡」が建立されたそうだ。

この治水を記念して古川の起点となっていた高瀬堰西端付近に「禹王謨」碑が昭和47年5月に建立されたと記されている。

全国の禹王遺跡を擁する地は、土砂・洪水災害を風化させないために毎年一同に会して治水を考えるサミットを行っている。2014年(平成26年)10月18,19日には広島が会場となって「第4回全国禹王サミット」がこの広島のせせらぎ河川公園で開かれる予定であった。その、協賛事業として、我ら「せせらぎ公園の魅力発見」を目指すグループが「せせらぎ公園の樹木に名札を付ける」という企画に参画した。皮肉にも、サミットを予定した年の8月20日、八木・緑井地区で大規模土砂災害が発生したのである。サミットは中止となり、名札をつけることもなくなってしまった。

この企画は、次年度にせせらぎ公園の樹木に名札を付け、四季折々の植物を市民・区民に紹介する事業として実施された。名札を付ける事業に集まった会員で春夏秋冬「せせらぎ河川公園」に感じる植物の息吹を紹介することを目的に活動している。

 

蛇足(専門的に研究し、その知識の上に、考え、記載したものではありません)

地元古老の話だと、平成の大合併からは地図上からなくなったが、阿武山の麓に浄楽地(じょうらくじ)という場所があった。今も浄楽寺という寺がある。浄楽地とは元は「蛇落地」(じゃらくじ)と言われていたが、「蛇落を浄楽に変えたと伝えられている」という。浄楽地は、阿武山の谷筋で、数本の谷が集まる場所に当たる。古くは八木地区まで海が入り込んで、今の太田川は海であったと伝えられている。今のJR 可部線は海岸線に当たると考えられる。今も別所団地の大きな崖の中腹に広島~可部への街道跡だという道路の名残がある。さて、八木一帯は阿武山から流れ出た土砂で小扇状地ができ、さらに先に記したように中国山地から太田川を通じて大量の土砂が流れ出て現在の広島の大扇状地になったとの記述がある。4年前、820日発生した大規模土砂災害時、標高590mの山から標高20mの低地に谷筋を通じて濁流が一気に流れ落ちる様は、(流れ落ちる長い濁流の跡を蛇に例え)正に蛇が人家を飲み込む状況を連想させるすさまじい光景であったことが思い出される。浄楽地には3つの大きな谷が流れ込んでいる。数匹の蛇が天から浄楽地に落ちる蛇落の光景である。古い伝説であるが、蛇落地に現れる大蛇を退治した伝説上の人物は、八木城城主の一族である香川勝雄とある。大蛇退治の様子が城主の末裔香川家に全文詳しく残されているとあり、記述の写しを図書館で見ることができた。この地には蛇退治に使った太刀を生む太刀山。大蛇の血を洗ったとされる「太刀川」があり、太刀を納めた社「太刀納」という祠が残っているそうである。また、阿武山山系は、山頂の標高が590mから300mの山が尾根でつながっている。そして麓のJR梅林駅あたりは標高約20mつまり、標高差550mを越す。急こう配の傾斜である。阿武山(あぶさん)は、もとは危ない山つまり「危山」(あぶさん)といわれていたとのことである。だが、阿武山(あぶさん)に変えられたという。

これまで、太田川決壊と田畑の冠水という水害ばかりが心配されていた八木・佐東地区にあって、水害のない浄楽地は、阿武山の麓にあって、南の方角が開けて、傾斜という問題はあるが、平常時は快適な居住場所と見える。最近は谷筋まで樹齢100年は越すと思われる大木で覆われていたから、長年被害もなく安全地と思われていたにちがいない。大きな落とし穴となっていたように思われる。8.20大規模土砂災害のような災害に遭遇すると、古くは小扇状地をつくるほどの土砂が崩れ流れ出ており、大きな崩落が発生していた光景が浮かび上る。古くから喉元過ぎれば容易に忘れてしまう人の記憶はきちんと記録に残し、その記録を無視することなく、土地開発などにも参考資料として活用すべきではなかろうか。一時の思い付きで歴史を変えたりしてはならないことを教えてくれる。

広島県、山口県の県境、小瀬川と玖島川の合流点に当たるところに滑らかな凹凸のある岩盤でなる景勝地がある。広島県天然記念物に指定されている蛇喰磐(蛇喰岩)で、気の遠くなるような年月をかけて水流によって削られできた岩盤である。谷筋を流れる川を蛇と見立て、蛇が岩盤をかじってできたのだという発想であるが、水流を「蛇」と見立てる同じ考えなのかもしれない。

結果的に、平成14820日に発生した「大規模土砂災害」は、起きるリスクの高い場所が開発されていた団地と解釈できないだろうか? 


2014年発生した八木・佐東地区の土砂災害

2014.8.20 発生時の記録

 八木地区大規模土砂災害の状況

                                     2014.8.21   

 「闇夜にひっきりなしに駆け巡る青白い閃光と天地に轟く轟音、加えて瀑布にたたずむかのような強雨でまんじりともできない夜」、これが8月20日の午前3時~4時の状況かと思います。外の異常な音に、ガラス越しに豪雨が遮る街路灯の光をすかして外を見ると、やはり尋常ではない。外に出て懐中電灯で道路を照らすと・・・びっくり。家の前の平坦な8m幅の道路は、黒くて重い泥水が覆い、ゆっくりと流れている。「上流の方でどこか崖崩れがあった」と容易に判断できる状況でした。「ツッカケ」で流れに足を入れると、田んぼに入ったようにドロドロとした泥水で、身動きが取れない。おまけにつるつる滑って街路灯くらいの明かりでは歩けそうにない。とても危険と判断し、「明るくなるまで」と家に入りました。たぶん大規模土砂災害が発生した時間帯だったのでしょう。そのうち、雨は小ぶりになり、泥水の流れもとどまってきました。

午前5時ころには雨はやみ、明るくなった6時前、泥の流れも大方ひいてきましたが、道路と駐車場には厚さ約5cm程度の粘土状の泥を残したまま引き揚げているのです。各家庭総出で少し流れている駐車場とか道路の泥をスコップや塵取りで、排水溝に押し流し、まだ強く流れている排水溝の水に持ち去ってもらう。そのうち、泥となったものは土嚢に入れて山積みしました。8時ころまで、夢中で格闘しました。気が付きませんでしたが、ふと目を上げれば阿武山の山肌が帯状に削られ中央に滝のように白く水が落ちている。遠くから見る「那智の滝」を思わせる光景でした。阿武山の頂上には水源はないはずなのに滝ができる不思議な現象でした。その滝の長さは頂近くから麓に至るもので、海抜500mを超す阿武山の高さからすると、300m以上はあるものと思うが小さく見積もって、300m前後としておきます。その幅はおそらく片側2車線の道路幅くらい(?)はありそうです。我が家から見えるそのえぐられた山肌は、大小5本で、空には、ヘリコプター5機が舞っている。我々の近くの浸水した道路を映しているのかと思いましたが、少々ヘリコプターの機数が多すぎるとは思いました。「真夏の大雨だから」なのかとも思いました。

休憩を兼ね、朝食のため家に入り、テレビを見て目を疑った。「大変な災害が発生したんだ!!」「あの地区には2人の元同僚の実家もある」と・・・昨夜の夜半までは豪雨の予兆はなかったから、暗い中に避難しようにもできなかったのではないかと思われる。

電話で「元同僚の家は2世帯とも残ったが、どちらも家の左右は土石が流れ、その向こうにあった家が消えて土砂・瓦礫で覆われている」との情報がはいった。

災害というとどこか他人事と考えていたが、身近なところで、本当に起こったんだ。

 

長靴、土嚢を求めてホームセンター(西村ジョイ)に行きましたが、同類の道具を求めてごった返していました。そこから八木3.4.5丁目を見て、「これは大変な災害だ」と身がすくむほどびっくりしました。家のあった高台が小さな三角洲のごとく山の土砂が覆って扇状地と化している。自分の見た真っ暗で、雷鳴鳴り響き、異常な豪雨の中を道路に飛び出す人はいただろうか、自宅こそ安全、まして高台だから・・・現に平地の自分だって、「少し明るくなるまでと急いで家の中に入ってしまったではないか」と考えると、身の毛がよだつ思いです。

2014.8.29 記

 

山は動いている(八木地区大規模土砂災害に思う)                           

 大規模土砂災害の発生した8月20日の状況は述べました。ど素人ながらこの土砂災害の被害状況を見ると、いろいろ考えさせられます。

「動かざること山の如し、山は泰然として動かかない。その山の懐に抱かれて生き物は幸福に生きている」と私は信じています。しかし、動かないはずの山が動きました。      

山には必ず尾根があり谷があります。どうして尾根ができ谷ができるのか? 日本列島だけでなく、地球規模で見ても大陸は移動してきたし移動しているという「大陸移動説」もあります。

広島には不動産販売でも「平地」(ひらち)という言葉がよく加筆されています。広島は山と三角洲でできていて、平地が少ないからだといいます。また、「広島は三角洲でできた町であるから地盤が弱い」とよく聞かされました。地下鉄の敷設は困難、また「県庁南館」は船を水に浮かべるように建物を砂に浮かべる工法だと昔、聞いたこともあります。

広島が山と三角洲であるなら、その三角洲の土砂はどこから来たのか?疑いもなく山の土砂が流れて堆積したものです。今回、阿武山の300mを超して削られた何本もの谷筋の崩れた土砂も同じ運命であったかもしれません。であるなら、谷となったところは必ず土砂が流れたところです。尾根から少しずつ流れた土砂が一部に少しずつ積もって一定量(期間)堆積し、風化が重なった場合、時に土石流となって流れ落ちるのではないだろうか。何度も何度も同じ経緯を経て長い年月をかけて出来上がったのが広島の街です。昔なら、山林の樹木は整理され、山も棚田も排水溝を作り、梅雨前には必ず地域総出で整備していました。人の力によって被害の程度が緩衝されていたように思います。昨今、排水溝の手入れはなく、倒木・落ち葉は積もり、おまけにイノシシなどが畑のごとく掘り起こすため、山の表面には異常なほどの水が貯留し、それが、積み木倒しのごとく一気に流れ落ちたかもしれないとも想像します。急斜面であればなおのことです。

昔、「土地神話」なる考えのもと、「戸建て住宅こそ」との言葉と共にこぞって宅地の購入を希望しました。結果、急斜面の山裾にまで宅地開発の波が押し寄せ日本列島が改造されました。尾根筋、谷筋、水路を詳細に検討されていない場合があったかもしれません。そうすれば、宅地・建物が流された方々が一生をかけて支払った資産はどこへ行ったのでしょう。今回の被害がそのようなことが原因ではなかったことを祈ります。

さて、被害の発生した日本はいかなるところかと考えますと、本当に素晴らしい国だと思います

1 災害が起これば、官民挙げて即時被災者救済に取り組んでくれること

2 ほとんどの人が非常に協力的に手を差し伸べていること

です。最近報道される、ウクライナ、パレスチナ等をみますと、攻撃によって家が破壊されたとしても、救済の手は行き渡っていないように思われます。救済がなければ、難民となってさまようしかない。日本であれば、災害補償はどのようになるのかは知りませんが、難民となってさまようケースは皆無と思われます。また、日本で災害が発生した場合、(国力の限り)できるだけ支援しているようには見えます。被災者も、いろいろと条件を出す機会も与えてくれ、それを支援する団体も数多く出るのが常です。

 

 いずれにしても、動かないはずの山は多くの人命と途方もない財産を押し流し、動いてしまった。もう一度素晴らしき日本の原点を考える必要があるのかもしれません。